鹿沼屋台が記録に初めて見られるのは安永9年(1780年)。このころの屋台は、簡単な屋根付きの移動できる舞台で、「踊り屋台」と呼ばれていました。
寛政(1787年〜)に入ると付け祭りは盛大になり、各町は、踊りや狂言を競い合って、屋台を造り変えていきました。屋台の中に囃子方(はやしかた)が入るため、かつての「踊り屋台」に比べて踊り場が狭くなるとともに、一部彩色(さいしき)彫刻で飾られた黒漆塗(くろうるしぬり)の屋台となり、彫刻屋台の祖形ができあがったのです。
文化・文政(1804〜1829年)の江戸文化爛熟(らんじゅく)期、付け祭りは芸能を主体にますます盛大になり、華やかな舞台背景としての黒漆塗屋台は、華麗な彩色彫刻で飾られていきました。
その後、文政・天保の改革によって「祭礼を質素に、在郷(ざいごう)芝居が禁止」されたため、各町の付け祭りに対する意気や力の競い合いは、いつしか屋台を質実豪壮な白木(しらき)彫刻で飾ることや、囃子を奉納する神社への繰り込みへと向けられ、幕末には白木造りの屋台が主となり、重量感のある豪壮な彫刻屋台になっていきました。 |